タモリさんの弔辞〜これでいいのだ、のこころ
故・赤塚不二夫さんの葬儀で弔辞を読んだタモリさんは、実は白紙の弔辞をもち、文字を追うのではなく、自分が心から思ったことを自分の言葉で、語られていることが話題をよんでいます。
やはり、ちゃんとYouTubeにはノーカットでアップされていました。
自分の体験と感性ととぎすまされた思考からこぼれる言葉には、魂が宿っています。こんなにわかりやすい言葉で、人の人生を語ることができる力。感服しました。感動しました。
とくに最近に、なって僕がとても大事だと思っている、現実をありのままにみつめ、受けとめること。自分自身をふくめて、ありのままの自分を認め、肯定することの大切さを、タモリさんは赤塚不二夫さんから、学んだといって、語っています。
「生」は、ぜひ、動画をみていただくとして、該当部分を引用しておきます。
自分が最近考えていることが、間違っていない
「これでいいのだ」と心から思えた瞬間でした。
ニャロメ♪
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やはり、ちゃんとYouTubeにはノーカットでアップされていました。
自分の体験と感性ととぎすまされた思考からこぼれる言葉には、魂が宿っています。こんなにわかりやすい言葉で、人の人生を語ることができる力。感服しました。感動しました。
とくに最近に、なって僕がとても大事だと思っている、現実をありのままにみつめ、受けとめること。自分自身をふくめて、ありのままの自分を認め、肯定することの大切さを、タモリさんは赤塚不二夫さんから、学んだといって、語っています。
「生」は、ぜひ、動画をみていただくとして、該当部分を引用しておきます。
赤塚先生は本当に優しい方です。
シャイな方です。麻雀をする時も、
相手の振り込みであがると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、
ツモでしかあがりませんでした。
あなたが麻雀で勝ったところを見たことがありません。
その裏には強烈な反骨精神もありました。
あなたはすべての人を快く受け入れました。
そのためにだまされたことも数々あります。
金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。
しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことはありません。
あなたは私の父のようであり、兄のようであり、
そして時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は、
はるか年下の弟のようでもありました。
あなたは生活すべてがギャグでした。
たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、
大きく笑いながらも目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ち、
出棺の時、たこちゃんの額をぴしゃりと叩いては、
「この野郎、逝きやがった」と、また高笑いしながら大きな涙を流していました。
あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。
あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し受け入れることです。 それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、 また、時間は前後関係を断ち放たれて、 その時、その場が異様に明るく感じられます。 この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。 すなわち、「これでいいのだ」と。
自分が最近考えていることが、間違っていない
「これでいいのだ」と心から思えた瞬間でした。
ニャロメ♪
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人気blogランキングへ今日からバナナダイエットを再開
長くさぼっていた、バナナダイエットを今日から再開しました。
今朝の体重は
71.0キログラム
体脂肪率 24.0%
夕べ、実家に帰省していた嫁さんと息子が帰ってきました。
帰りがけに、「どうせ、帰省中はバナナなんか食べずにいたんやろう」とバナナを買って帰ってきました。
さ、さすがです(汗
オリンピックをみていたら、鍛えぬいたからだというのは
男女問わず、美しいですね。
バナナダイエットに加えての腕立てと腹筋・・・
ビリーも再入隊したい・・・・
やります!めざせ、65キロ!!
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今朝の体重は
71.0キログラム
体脂肪率 24.0%
夕べ、実家に帰省していた嫁さんと息子が帰ってきました。
帰りがけに、「どうせ、帰省中はバナナなんか食べずにいたんやろう」とバナナを買って帰ってきました。
さ、さすがです(汗
オリンピックをみていたら、鍛えぬいたからだというのは
男女問わず、美しいですね。
バナナダイエットに加えての腕立てと腹筋・・・
ビリーも再入隊したい・・・・
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人気blogランキングへ6年前の子育て日記を読みかえす。(はぢゅかちぃ)
2001年からいろんなところで日記を書いてきました。
僕は、1999年から2003年まで、地元で市議会議員をやっていました。
「子育て真っ最中のパパ」さん議員でした。
当時の日記をよみかえしていたら、こんなくだりが出てきました。
子どもに正面から向き合うということは、子どもをありのままに受け止めてあげることだろう。それは、歓心を買ったり、何でも言うことを聞いてあげることとは違う。
まず、子どもの話を聞いてあげることであり、それに対して親である自分はどうしたいか、どうしてほしいのかを粘り強く語りかけていくことだろう。
今、読み返してみると、子育てにとどまらず、誰に対して向き合ううえでも、大事なことを体験した、と思います。
でも、あれから、6年もたっているのに、ぜんぜん自分は成長していないなぁ、と反省すること、しきりです。(汗
--------------------------------------------------
子育てと自尊心
昨日は、子育てについて考えさせられる一日だった。できるだけありのままに昨日の出来事を書き留めておきたい。
僕の妻(つまり息子の母親)は、今年から新しい学校に転勤となり、今週は家庭訪問がびっしり詰まっている。1年生の担任ということもあり、家でも仕事をしたりするなど慌ただしい。
ここ数日も妻は、夜ゴソゴソと仕事。神経質な息子は脇に母親がいないと寝つけないのか、布団に入っても12時ごろまで起きている日が続いた。
先週も「ちょっと眠いから保育園お休み」と保育園を休んだ息子が、昨日も「眠たいからお休みする」と言い出した。母親は学校があるので先にでて、いつもの通り僕と息子だけに。
「今日は、お父ちゃんお仕事があるから保育園休めないよ。」と僕。
9時には間に合いそうもなかったので、保育園に遅刻の電話を一本いれた。9時前。まだ、息子はゴロゴロして、ビデオを見たいといっている。
だんだん僕もイライラしてきて、言葉もきつくなってしまう。
「お父ちゃんに協力してくれよ!。なんで、保育園に行かないの?!」
なんどいっても、「眠たいから、今日はお休みする」としかいわない。
ついに(いつものように)折れた僕は、保育園に電話をしてお休みする旨を伝えた。
息子を抱き上げると、なぜか涙があふれてきた。なかなか自分の思う通りに動いてくれない息子に対して、つい大声をはりあげてしまう。その原因は、たいがい僕の体裁を気にする「自尊心」からくるものなのだ。
「こんなにしょっちゅう保育園を休ませたら、『お父さんお仕事忙しくないのかしら?』と思われるのでは」
「保育園にいきたくない、というのは集団生活になじめない子なのだろうか?将来はどうなのだろう?集団の大切を普段から説く者の子どもが集団になじめない子に育っている、などと言われたら…」。
そんなちっぽけな自尊心にとらわれている自分が情けなく、息子を大きく包み込んであげられずに、感情をコントロールできずヒステリックに叫ぶ自分がイヤで、息子を抱き上げたとたん、涙が自然にこぼれてきた。
「お父ちゃん、なんか涙がみえているよ。」といって、両手で僕の目を隠した息子の仕草を見て、涙がまたあふれだした。
その後、市役所に行く用事があったので、息子を連れていき、そのあと「イズミヤ」に行くことにした。
いま思うと「イズミヤに行こうか?」と息子の歓心を買うためにかけた、この一声が失敗のもとだった。
イズミヤには、息子のお目当てのおもちゃがある。この前の日曜日にいったときには、「また今度にしようね」と納得させたはずだった。ところが、息子は、お目当てのおもちゃを買うといってきかない。フロアーに大の字になって、「買って買って買って〜」とおねだりをする。
こうなると、また僕の「まわりを気にする」自尊心がむくむくと沸き上がる。
また僕は、敗北。
お昼をイズミヤの地下で食べて、家に帰ろうとしたときだ。
「ソフトクリーム食べたい」といいはじめたので、買ってあげたのに食べようともせず、フロアーを走りはじめた。
ようやくつかまえると、「おしっこでパンツがぬれたので取り替えたい」といいはじめる始末。
ついに、僕の怒りが頂点に達した。「いいかげんにしろ!!」店内に、怒りの声を響かせてしまった。
想像してほしい。片方の手にソフトクリームを抱え、もう片方におもちゃを買った買い物袋をネクタイをした男が子どもを追いかけて、バタバタとしている。ソフトクリームとはとけはじめて、買い物袋にポタポタと垂れはじめた。焦る僕、それに比例して泣き声も大きなったいった。
息子の服をぎゅっとつかまえた僕は、息子が泣き叫ぶのも聞き入れず、片手に抱えてイズミヤを離れた。
頭に血がのぼっていた。買い物客の何人かが、「何ごとか」と驚いた様子でみていただろう。
狭いまちだから、僕が議員であることを知っている人も見ていたかも知れない。平日のこんな時間に、買い物袋抱えて、子どもが泣叫ぶのに無理矢理ひっぱって…
「まわりの人はどう思うだろう?恥ずかしい…」そんなことが、頭のなかをグルグルと渦巻く。
泣叫ぶ息子を家に連れて帰ると、服を着替えさせてしばらくすると、息子は寝息をたてはじめた。
夕方、妻が帰って、一部始終を伝えた。
息子の歓心を買うために、イズミヤに連れていったことが失敗のもとだ、と言われた。子どもに向き合っているようだが、それは、ある意味で「いなし」なのだ。
せめてドライブでもしながら、保育園でどんなことをして遊んでいるのか、どんなことが楽しいかを詳しく聞いてあげるようなことをすべきだったと反省した。
子どもに正面から向き合うということは、子どもをありのままに受け止めてあげることだろう。それは、歓心を買ったり、何でも言うことを聞いてあげることとは違う。
まず、子どもの話を聞いてあげることであり、それに対して親である自分はどうしたいか、どうしてほしいのかを粘り強く語りかけていくことだろう。
率直さが大事だと思うのに、僕は自分の自尊心から、息子に自分の思いだけを一方的に押し付けるだけになっていなかったか?。
自尊心は自己嫌悪と表裏一体だ。昨日は、自分が情けなくて嫌でたまらなくて、その後もたまっているデスクワークもあまり進まなかった。
子どもを自分の未熟さや都合だけで叱り飛ばしてはいけない。頭で分かっていても…と自分を責めた。本当に未熟な父親である自分がイヤだった。
夕食のときだ。
母親が息子に、「なんで保育園いかなかった?」と聞いてみた。息子は「ねむかったの」とポツリ。
「それだけ?」とさらに母親が聞くと、「お友達にパンチをもらったりする。だからイヤ」と言いはじめた。母親がよくよく聞いてみると、息子がいつも「えいや〜っ!」とお友達にたたかいを挑んでいくのだが、たいがい相手のほうが強くて自分がたたかれてしまう。それがイヤだったようだ。
「でも、それはあなたがたたかいをしかけていくからでしょ。自分がイヤだったら、お友達もイヤなのよ。だから、もう自分からたたかいをしかけたらダメだよ」と母親がやさしくいうと、「わかったよ〜〜」としおらしく答えていた。
そのやりとりを聞いていて、僕は自分の力不足を恥じた。
夜寝る前に、息子は母親に促されて「お父ちゃんごめんね」といってくれた。僕が涙で枕をぬらしたのは、ご想像のとおりだ。
翌朝(つまり今朝)、息子のためにたまご焼きをつくってあげた。妻は「おいしい!」とほめてくれたが、息子は、「ちょっと味がないよこの卵焼き」と一蹴。
まあ、いいさ。その率直さこそ、父子にとっては大切なのだ。
元気に今朝、息子が保育園にいってくれた。僕は、自分の弱点が洗い出されるこの子育てに、ひるまずに挑んでいこう、とあらためて思った。
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「子育て真っ最中のパパ」さん議員でした。
当時の日記をよみかえしていたら、こんなくだりが出てきました。
子どもに正面から向き合うということは、子どもをありのままに受け止めてあげることだろう。それは、歓心を買ったり、何でも言うことを聞いてあげることとは違う。
まず、子どもの話を聞いてあげることであり、それに対して親である自分はどうしたいか、どうしてほしいのかを粘り強く語りかけていくことだろう。
今、読み返してみると、子育てにとどまらず、誰に対して向き合ううえでも、大事なことを体験した、と思います。
でも、あれから、6年もたっているのに、ぜんぜん自分は成長していないなぁ、と反省すること、しきりです。(汗
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子育てと自尊心
昨日は、子育てについて考えさせられる一日だった。できるだけありのままに昨日の出来事を書き留めておきたい。
僕の妻(つまり息子の母親)は、今年から新しい学校に転勤となり、今週は家庭訪問がびっしり詰まっている。1年生の担任ということもあり、家でも仕事をしたりするなど慌ただしい。
ここ数日も妻は、夜ゴソゴソと仕事。神経質な息子は脇に母親がいないと寝つけないのか、布団に入っても12時ごろまで起きている日が続いた。
先週も「ちょっと眠いから保育園お休み」と保育園を休んだ息子が、昨日も「眠たいからお休みする」と言い出した。母親は学校があるので先にでて、いつもの通り僕と息子だけに。
「今日は、お父ちゃんお仕事があるから保育園休めないよ。」と僕。
9時には間に合いそうもなかったので、保育園に遅刻の電話を一本いれた。9時前。まだ、息子はゴロゴロして、ビデオを見たいといっている。
だんだん僕もイライラしてきて、言葉もきつくなってしまう。
「お父ちゃんに協力してくれよ!。なんで、保育園に行かないの?!」
なんどいっても、「眠たいから、今日はお休みする」としかいわない。
ついに(いつものように)折れた僕は、保育園に電話をしてお休みする旨を伝えた。
息子を抱き上げると、なぜか涙があふれてきた。なかなか自分の思う通りに動いてくれない息子に対して、つい大声をはりあげてしまう。その原因は、たいがい僕の体裁を気にする「自尊心」からくるものなのだ。
「こんなにしょっちゅう保育園を休ませたら、『お父さんお仕事忙しくないのかしら?』と思われるのでは」
「保育園にいきたくない、というのは集団生活になじめない子なのだろうか?将来はどうなのだろう?集団の大切を普段から説く者の子どもが集団になじめない子に育っている、などと言われたら…」。
そんなちっぽけな自尊心にとらわれている自分が情けなく、息子を大きく包み込んであげられずに、感情をコントロールできずヒステリックに叫ぶ自分がイヤで、息子を抱き上げたとたん、涙が自然にこぼれてきた。
「お父ちゃん、なんか涙がみえているよ。」といって、両手で僕の目を隠した息子の仕草を見て、涙がまたあふれだした。
その後、市役所に行く用事があったので、息子を連れていき、そのあと「イズミヤ」に行くことにした。
いま思うと「イズミヤに行こうか?」と息子の歓心を買うためにかけた、この一声が失敗のもとだった。
イズミヤには、息子のお目当てのおもちゃがある。この前の日曜日にいったときには、「また今度にしようね」と納得させたはずだった。ところが、息子は、お目当てのおもちゃを買うといってきかない。フロアーに大の字になって、「買って買って買って〜」とおねだりをする。
こうなると、また僕の「まわりを気にする」自尊心がむくむくと沸き上がる。
また僕は、敗北。
お昼をイズミヤの地下で食べて、家に帰ろうとしたときだ。
「ソフトクリーム食べたい」といいはじめたので、買ってあげたのに食べようともせず、フロアーを走りはじめた。
ようやくつかまえると、「おしっこでパンツがぬれたので取り替えたい」といいはじめる始末。
ついに、僕の怒りが頂点に達した。「いいかげんにしろ!!」店内に、怒りの声を響かせてしまった。
想像してほしい。片方の手にソフトクリームを抱え、もう片方におもちゃを買った買い物袋をネクタイをした男が子どもを追いかけて、バタバタとしている。ソフトクリームとはとけはじめて、買い物袋にポタポタと垂れはじめた。焦る僕、それに比例して泣き声も大きなったいった。
息子の服をぎゅっとつかまえた僕は、息子が泣き叫ぶのも聞き入れず、片手に抱えてイズミヤを離れた。
頭に血がのぼっていた。買い物客の何人かが、「何ごとか」と驚いた様子でみていただろう。
狭いまちだから、僕が議員であることを知っている人も見ていたかも知れない。平日のこんな時間に、買い物袋抱えて、子どもが泣叫ぶのに無理矢理ひっぱって…
「まわりの人はどう思うだろう?恥ずかしい…」そんなことが、頭のなかをグルグルと渦巻く。
泣叫ぶ息子を家に連れて帰ると、服を着替えさせてしばらくすると、息子は寝息をたてはじめた。
夕方、妻が帰って、一部始終を伝えた。
息子の歓心を買うために、イズミヤに連れていったことが失敗のもとだ、と言われた。子どもに向き合っているようだが、それは、ある意味で「いなし」なのだ。
せめてドライブでもしながら、保育園でどんなことをして遊んでいるのか、どんなことが楽しいかを詳しく聞いてあげるようなことをすべきだったと反省した。
子どもに正面から向き合うということは、子どもをありのままに受け止めてあげることだろう。それは、歓心を買ったり、何でも言うことを聞いてあげることとは違う。
まず、子どもの話を聞いてあげることであり、それに対して親である自分はどうしたいか、どうしてほしいのかを粘り強く語りかけていくことだろう。
率直さが大事だと思うのに、僕は自分の自尊心から、息子に自分の思いだけを一方的に押し付けるだけになっていなかったか?。
自尊心は自己嫌悪と表裏一体だ。昨日は、自分が情けなくて嫌でたまらなくて、その後もたまっているデスクワークもあまり進まなかった。
子どもを自分の未熟さや都合だけで叱り飛ばしてはいけない。頭で分かっていても…と自分を責めた。本当に未熟な父親である自分がイヤだった。
夕食のときだ。
母親が息子に、「なんで保育園いかなかった?」と聞いてみた。息子は「ねむかったの」とポツリ。
「それだけ?」とさらに母親が聞くと、「お友達にパンチをもらったりする。だからイヤ」と言いはじめた。母親がよくよく聞いてみると、息子がいつも「えいや〜っ!」とお友達にたたかいを挑んでいくのだが、たいがい相手のほうが強くて自分がたたかれてしまう。それがイヤだったようだ。
「でも、それはあなたがたたかいをしかけていくからでしょ。自分がイヤだったら、お友達もイヤなのよ。だから、もう自分からたたかいをしかけたらダメだよ」と母親がやさしくいうと、「わかったよ〜〜」としおらしく答えていた。
そのやりとりを聞いていて、僕は自分の力不足を恥じた。
夜寝る前に、息子は母親に促されて「お父ちゃんごめんね」といってくれた。僕が涙で枕をぬらしたのは、ご想像のとおりだ。
翌朝(つまり今朝)、息子のためにたまご焼きをつくってあげた。妻は「おいしい!」とほめてくれたが、息子は、「ちょっと味がないよこの卵焼き」と一蹴。
まあ、いいさ。その率直さこそ、父子にとっては大切なのだ。
元気に今朝、息子が保育園にいってくれた。僕は、自分の弱点が洗い出されるこの子育てに、ひるまずに挑んでいこう、とあらためて思った。
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人気blogランキングへ自己肯定感に関する本2冊
この夏、心理学関係の本を二冊読みました。
著者は、高垣忠一郎さんという、立命館大学大学院の教授。30年以上にわたって、登校拒否やひきこもりなどをもつ、保護者の方などの
カウンセリングに取り組んでこられた、この道のスペシャリスト、第一人者です。
●「競争社会に向き合う自己肯定感」
●「生きることと自己肯定感」
いずれも新日本出版社から。
いちばん学んだことは、「自己肯定感」には2種類の捉え方があること。
ひとつは、自分という個体に備わる、能力や特性を評価する、「セルフ・エスティーム」という意味での、自己肯定感。他人との比較、差別化という意味で、「自分には他人と違うこんな力がある」のだから、
「汝の価値にめざめよ」「自信をもとう」という意味合いです。
一般的には、こういう意味で「自己肯定感」が使われています。
しかし、著者がいう「自己肯定感」とは、一般的な意味で使われているそれとは、少し異なります。
つまり、「無力でダメなあんたでもええねんで」という、受容的な人間関係、集団のなかで、「自分が自分であって大丈夫」という感覚、それを「自己肯定感」と著者はよびます。
「海に身をゆだねてぽっかりと浮かんでいる感覚」「生命の大きな働きを信じて、それにすがる方向に心が動き始める。」
自分で事態をコントロールし、何とかしようとする無駄なあがきを放棄した、ある意味では突き抜けたような解放感が、自己肯定感だと、いいます。
他人を愛するというのは、かけがえのない存在だと思える心であり、その人のそばにいられることがうれしい、その人ととともに生きられることがうれしい、という感謝の心だと思います。
著者は、その「他人」をそっくり、「自分」におきかえてみたら、それが自己肯定感につながる、といいます。
自分自身をかけがえのない存在だと思い、自分自身と向き合いながら、自分とともにいられることに喜びと感謝をもつ。そういう、自分を愛する心というのは、決して操作的に、ふくらませることができる感覚ではない。
植物の、つぼみがふくらんで、花が咲くように、必要なプロセスを経て咲く自己肯定感。
誰かかが与えたり、もたせたり、高めたりするのではなく、その人自身のなかにプロセスを経て花開いていくように、土壌をつくって、待つという姿勢が何より大事だといいます。
ところが、いまの競争社会、新自由主義的なあまりに、急ぎすぎる社会では、「待つ」ことが許されません。
そのことから、心が置き去りにされすぎている、現代に著者は痛烈な批判をむけます。
もっと、ゆっくり、もっとじっくり。
そんな「ゆるりとした共同社会」のなかでこそ、自分を愛し、他者を愛するやさしい、セラピー文化は生まれてくるのではないでしょうか。
願わくば、僕自身もそういう「ゆるりとした共同社会」をつくる一翼を担い続けていきたい、と心から思いました。
ぜひ、おすすめな本です。
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著者は、高垣忠一郎さんという、立命館大学大学院の教授。30年以上にわたって、登校拒否やひきこもりなどをもつ、保護者の方などの
カウンセリングに取り組んでこられた、この道のスペシャリスト、第一人者です。
●「競争社会に向き合う自己肯定感」
●「生きることと自己肯定感」
いずれも新日本出版社から。
いちばん学んだことは、「自己肯定感」には2種類の捉え方があること。
ひとつは、自分という個体に備わる、能力や特性を評価する、「セルフ・エスティーム」という意味での、自己肯定感。他人との比較、差別化という意味で、「自分には他人と違うこんな力がある」のだから、
「汝の価値にめざめよ」「自信をもとう」という意味合いです。
一般的には、こういう意味で「自己肯定感」が使われています。
しかし、著者がいう「自己肯定感」とは、一般的な意味で使われているそれとは、少し異なります。
つまり、「無力でダメなあんたでもええねんで」という、受容的な人間関係、集団のなかで、「自分が自分であって大丈夫」という感覚、それを「自己肯定感」と著者はよびます。
「海に身をゆだねてぽっかりと浮かんでいる感覚」「生命の大きな働きを信じて、それにすがる方向に心が動き始める。」
自分で事態をコントロールし、何とかしようとする無駄なあがきを放棄した、ある意味では突き抜けたような解放感が、自己肯定感だと、いいます。
他人を愛するというのは、かけがえのない存在だと思える心であり、その人のそばにいられることがうれしい、その人ととともに生きられることがうれしい、という感謝の心だと思います。
著者は、その「他人」をそっくり、「自分」におきかえてみたら、それが自己肯定感につながる、といいます。
自分自身をかけがえのない存在だと思い、自分自身と向き合いながら、自分とともにいられることに喜びと感謝をもつ。そういう、自分を愛する心というのは、決して操作的に、ふくらませることができる感覚ではない。
植物の、つぼみがふくらんで、花が咲くように、必要なプロセスを経て咲く自己肯定感。
誰かかが与えたり、もたせたり、高めたりするのではなく、その人自身のなかにプロセスを経て花開いていくように、土壌をつくって、待つという姿勢が何より大事だといいます。
ところが、いまの競争社会、新自由主義的なあまりに、急ぎすぎる社会では、「待つ」ことが許されません。
そのことから、心が置き去りにされすぎている、現代に著者は痛烈な批判をむけます。
もっと、ゆっくり、もっとじっくり。
そんな「ゆるりとした共同社会」のなかでこそ、自分を愛し、他者を愛するやさしい、セラピー文化は生まれてくるのではないでしょうか。
願わくば、僕自身もそういう「ゆるりとした共同社会」をつくる一翼を担い続けていきたい、と心から思いました。
ぜひ、おすすめな本です。
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人気blogランキングへ口ひげ〜コンチネンタルタイプ
口ひげをはやしてから、だいぶ時間がたちました。
さて、お手入れはどうしたものか?といろいろネットを徘徊していたら、
はさみで、そろえるのが一番手っ取り早いことがわかりました。
ここ最近、仕事関係の人から
「顔が童顔だから、口ひげは似合うよ。」「口ひげとサングラスも似合ってる」とお褒めの言葉をいただて、すっかり気をよくしています。
あとは、田舎に帰省中の嫁さんが帰ったときに、剃刀をもって追いかけられるのから、逃れたら、「市民権」を確立できるかもしれません。
ヘアーサロンを経営されている方が、口ひげについて面白いページを
つくっていらっしゃったので、紹介します。
http://www.japan-net.ne.jp/~makitan/hige.htm
僕のようなひげの形は、「コンチネンタルタイプ」というそうです。
アコギの弾き語りもサングラス姿で、気持ちをこめて挑戦してみようかな・・・
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さて、お手入れはどうしたものか?といろいろネットを徘徊していたら、
はさみで、そろえるのが一番手っ取り早いことがわかりました。
ここ最近、仕事関係の人から
「顔が童顔だから、口ひげは似合うよ。」「口ひげとサングラスも似合ってる」とお褒めの言葉をいただて、すっかり気をよくしています。
あとは、田舎に帰省中の嫁さんが帰ったときに、剃刀をもって追いかけられるのから、逃れたら、「市民権」を確立できるかもしれません。
ヘアーサロンを経営されている方が、口ひげについて面白いページを
つくっていらっしゃったので、紹介します。
http://www.japan-net.ne.jp/~makitan/hige.htm
僕のようなひげの形は、「コンチネンタルタイプ」というそうです。
アコギの弾き語りもサングラス姿で、気持ちをこめて挑戦してみようかな・・・
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